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【声明】ひきこもりは、状態像であり病気ではない

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若者協同実践全国フォーラム理事会声明

ひきこもりは,状態像であり病気ではない

―社会的な距離は,社会の矛盾が生み出す―

2021年11月15日
若者協同実践全国フォーラム(JYCフォーラム)理事会

 

私たちJYCフォーラム理事一同は,「ひきこもり」は状態像であり,「病気」ではなく,その状態を表現する為に「症」という文字で表現するものではないと考えています.以下,その理由とそこから派生してくる「ひきこもり」にかかわる実態と支援の課題について,見解を記しておきます.

 

1.ひきこもりは「症」や「症候群」ではなく状態

ひきこもりは,様々な要因から社会的な参加(義務教育を含む就学,非常勤職を含む就労,家庭外での交遊など)を6か月以上回避している状態であり,なかには,経過をみていると精神病が明らかになってくるものもあると定義されています.ひきこもる当事者と関わっていますと,家族や社会への意義申し立てや,教育や労働の場への失望,今ある社会や環境さらに人と「自己」の不一致等からひきもっている人と出会うことがあります.その人たちは,管理的・競争的な今日の社会の諸矛盾との間に強い葛藤を持ち生きています.そうした若者たちのひきこもりは,人生の一時期に生じている意味ある一つの生のあり方ではないでしょうか.もちろん,意味ある生のかたちの一つであっても,それが長期化すると本人やその家族は社会から孤立し困窮しやすくなるという課題はあり,その点において支援の必要性は生じてきますが,そこで求められるのは社会的なアプローチであり,病理化して「治療の対象」とすることではありません.

いずれにせよ,「ひきこもり症」や「ひきこもり症候群」など,ひきこもり状態を病理化して捉えてしまうことは,ここ20~30年の間積み重ねられてきた支援現場および当事者活動の到達点を無効化するものであり,受け入れられるものではありません.

 

2.矛盾の多い今日の社会とひきこもり

もちろん,ひきこもりのなかには,発達障害や精神障害がその背景にみられる人が多いとの指摘があります.確かに,そうした事実は否定できません.しかし,発達障害や精神障害とひきこもりを単純に結びつけ考えることは適当ではありません.その人たちは,その障害をもち,今日の社会で生きるが故に,生きづらさを増幅させているのではないでしょうか.そのなかで,ひきこもりという状態に至る人もいるのです.

私たちが出会うひきこもりの当事者のなかには,今までの生活史のなかで,さまざまなことを体験し,それ故に生きる力が奪われている人がいます.例えば,乳幼児期に虐待や不適切な養育を体験してきた人は,長期にわたり繰り返される虐待から深刻なトラウマを形成し,人生に意欲的に関わることができず,意欲的に生きることから回避することがあります.また,親の失業や貧困,精神障害と出会ってきた人のなかには,親に護られているという感覚を持ちきれないなかで育ち,安心してさまざまな人生上の課題と向き合う力を奪われることがあります.さらに,学童期からのいじめや職場でのいじめにあった人は,その時々に集団への安定的・継続的な所属が適わず,集団のなかで育つ力を奪われます.

 

3.長引くひきこもりと8050問題

ひきこもっていることにより,人として生きる上で必要なことが奪われることがあります.まず,一つは,健康な身体です.適切な運動や食事などが得られない状態におかれてしまいがちなゆえに、どうしても健康が阻害されてしまうことがあります.また,長期のひきこもりにより,ストレスが高じ精神保健上の課題が生じるかねないことが多く報告されています.二つは,ひきこもり期間の平均がKHJの調査で12年を超えることが報告されています.思春期や青年前期からひきこもった場合,他者と関わるなかで育つことが,それだけ長く奪われることになります.そのことは,働くことからひきこもりの当事者を遠ざけることにつながっていくこともあります.

 

4.今日の企業社会への適応を目標とする支援では不十分

さて,今日,ひきこもり支援を困窮者支援の一環として行おうとする政策動向があります.国は,生活困窮者支援制度と従来からのひきこもり支援センターとの連携と協働を指摘しています(厚生労働省社会・援護局地域福祉課長通知:社援地発 第0630,2016.6.30).そもそも,この生活困窮者支援法は,その目的を,生活保護に陥る前に「自立の支援」を行い「自立の促進」を図ることにおくものです.そこで,就労が可能であると判断された者には就労支援が行われます.ただ,ひきこもる人の多くは,現在の競争的な企業社会に参加しなかったかできなかった人です.その人たちを,社会保障予算が逼迫しているからと,今日の競争的な企業社会への適応を急がせることは,その人たちが人間らしく生きていくことを否定するものであり,「自立の支援」とは程遠いものです.移行期に,競争主義的な社会に適応させることを考え,その政策を重視させるが故に,彼らは社会と距離を保とうとするのです.自分をぼろ布のようにする社会からは遠ざかりたいと思うことは道理であり,そのような選択肢しか提示できない支援のままでは,ひきこもる人たちに届くものとはなりえないでしょう.

ひきこもり当事者の就労自立は,仕事に当事者を合わせるのではなく,当事者に合わせた仕事を創り出す取り組みを行い,仕事のなかで発達が保障される装置をつくるなかで可能となります.その為には,社会的企業や中間就労の場の保障とともに,個々が何回も失敗しつつ発達することを可能にする場の保障が必要でしょう.この為,ひきこもり当事者の生存・発達を保障する法・制度は,生活困窮者支援法やそれに基づく制度とは別枠で考える必要があるのではないでしょうか.

 

5.若者の貧困化とひきこもりの長期化

雇用の非正規化が進むなか,結婚する機会さえ奪われてきた若者たちが増えています.韓国では「恋愛」「結婚」「出産」「人間関係」「マイホーム」「夢」「就職」をあきらめざるをえない世代を“七放世代”と言います.日本も,そうした社会になりつつあります.そして,若者が,40歳を過ぎて徐々に直面するのが親の介護の問題です.非正規就労では,介護休暇が十分に保障されていません.親が介護状態となった時に,長期の休みをとることは,その仕事を離れることを意味するのです.そうして仕事から排除され,他の人と交流する機会からも排除されることになりかねません.こうして「介護」の為に社会との関係を断ち,ひきこもらざる得ない人もあるのです.

ひきこもりは,「若者のひきこもり」「中高年のひきこもり」と区別し捉えるのではなく,今日の社会がもたらす社会的排除・孤立の問題として捉える必要があります.「自己責任」が徹底される新自由主義社会において,競争の敗者となりかねない「若者」「障害者」「女性」「非正規労働者」等々に共通して襲いかかる排除,社会的孤立として捉えることが必要でしょう.

 

6.社会的な解決を追求する取り組みを

ひきこもりは,まさに,福祉法や制度のハザマにある問題です.ひきこもりは,社会の構造に問題があるが故に生じてきた課題ですから,社会的責任の下で解決しなければなりません.しかし,国は,その社会的課題を「自助」や「共助」で片づけようとしているのです.私たちが相互に助け合うことは,もちろん大切なことです.しかし,そこにある社会的な問題に目をつむり共に助け合うことのみを重視する自己責任の押しつけは,権利としての福祉を創り上げるものではありません.

内閣府の調査を前後して,各地の自治体では,中高年のひきこもりに対する協議会が設けられています.兵庫県は,この協議会を設けるとともに,既存の青少年期を対象とする「青少年ひきこもり相談支援センター」を継続させるとともに,新たに県精神保健福祉センター内に,全年齢(主に中高年)を対象とするひきこもり総合支援センターを設置し,全県下の中高年ひきこもり調査の実施,モデル的な居場所の設置の補正予算請求を行いました.また,兵庫県明石市では,市立あかし保健所内にひきこもり相談支援課を設置しました.このいずれも,その効果に関する検討は今後の課題ですが,俊敏にひきこもり問題と対応する行政のスタンスは評価できます.

まず求められるのは,中高年のひきこもりの全容を明らかにする調査です.内閣府による2018年に実施された調査で明らかにされた61万3千人という数字は,あくまでも推計値です.調査方法はさまざまなに想定されますが,秋田県藤里町では,2010年2月から2011年8月にかけて全戸訪問調査を行い,3800人の町で113人(2.97%)の人が,「不就労期間がおおむね2年以上」であり「家族以外の人との交流や外出の機会がほとんどない」状態であることを明らかにしました.実態が明らかになった時点で,今ある資源で不十分であれば,新たな資源を創り出す運動を展開し,この問題を,社会的に解決する法・制度を確立することが必要ではないでしょうか.

 

7.「ひきこもり支援法」にむけて

日本の福祉は,家族を含み資産としてきました.2000年度に介護保険が創設される直前,自民党の一部で「子どもが親の面倒を見る日本の美風を損なう可能性がある」という議論が出ました.この背景には,「介護保険制度の導入による介護の社会化」が,子が親を尊ぶ日本古来の価値観を失うという考えがあったと考えます.日本で,核家族化が進む高度経済成長期までは,拡大家族で老親を子どもや孫が介護するのはあたりまえでした.つまり,日本の福祉を維持する為に,「家族」という含み資産を必要としてきたのです.

その「家族」を含み資産とする考えが前提となり,家族責任,自己責任の風潮を考える必要があります.新自由主義が世界を席巻して30年以上が経った今,家族責任論は何を求めているのでしょうか.この新自由主義が生み出した矛盾だらけの社会,歪みだらけの社会,なかでも人を護ることができなくなった今日の社会で,「家族」に最終的な責任を求めるのです.「家族」に,「君たちが最終的なセイフティネットだ.あなた達が頑張りきらないと家族を護れないのだ」と家族を叱咤激励するのです.

ひきこもっている状態にある人びとが,その状態に伴う困難を乗り越えていこうとする際,個々人およびその家族でどうにかしなければならないという自己責任・家族責任の風潮が広がっています.他方で,「ひきこもりは問題(病理)である/克服されなければならない」というまなざしを前提にして,「支援されるべき客体」として処遇していこうという動きも散見されます.この「自己責任・家族責任の名による放置」と,「一方的な支援の押しつけ」という状況に対し,当事者・家族・支援者はこれまで長年にわたり「それは違う」ということを訴え続けるとともに,この両者に帰結しないような実践をさまざまに展開してきました.

国家・政府の役割の根幹にあるのは,基本的人権の保障という側面であり,社会問題の帰結としてあるひきこもり状態(に起因する困難の除去)を放置し「自己責任・家族責任」で済ませてしまうのは,端的に国家の責任放棄です.また,この社会に生きる誰もが主権者であり,権利行使の主体であるという観点からすれば,問題を病理化し一方的な救済対象としてのみ捉える理解は,人民主権の原則にも沿わない人権侵害にもなりうるという点はきちんと把握しておくべきでしょう.

現在,「ひきこもり支援法」の制定が目指されていると報道されていますが,それが「自己責任・家族責任の強化」や「状態の病理化」「当事者の客体化」などに帰着してしまわないよう,私たちは現場からの発信と提言をこれからも続けていきたいと考えています.

 

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